平成29年8月2日に弁護士山口仁と弁護士塚本秀夫により開設しました。(千葉県弁護士会所属)

 

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法律相談につきましては,1回10800円(税込)となります。

海ほたる総合法律事務所は、平成29年8月、木更津の弁護士2名が以下のミッションを掲げて開設しました。

 

 

 ミッション:

 闇夜を照らす海ほたるのように、先が見えにくい状況で道しるべとなる法律事務所を目指します

 行動方針

① 木更津に拠点を置く法律事務所として、南房総地域の企業の活性化のために助言し、地域に貢献します。

② 高齢化の進む南房総地域において、財産管理・相続問題を重視し、高齢者や障害者に寄り添います。

③ 刑事事件や公害・環境問題など公益的な事件も怠りません。

アジア法

○ インドネシア民事訴訟における和解勧試について

 インドネシアでは,すべての民事訴訟事件で,第一審の審理における当時者が出席した最初の期日に,裁判所が和解を勧試することとされている。

 すなわち,HIR130条/RBg156条(HIRはジャワ島・マドゥラ島で適用される手続法であり,RBgはそれ以外の島に適用される手続法)は,

1 指定された日に,当事者が出廷した場合には,第一審裁判所は,裁判長を介してその当事者を和解させる。

2 そのような和解が成立した場合には,裁判において,その和解についての1通の証書を作成し,当事者はここで作成された証書に従う義務を有する。この証書は,通常の判決として執行されるものとする。

3 このような判決に対して控訴を行うことは許されない。

と規定しているのである。(ICD NEWS26号(2006.3)33頁)

 しかし,この規定により裁判所が「和解しますか?」と聞いても,和解の具体的な手続が明確となっていなければ,当事者が受け入れる余地は少なく,実効性がなかった。そこで,メディエーションに関する手続規定などを最高裁判所規則などで整備して,本規定の実効性を高める工夫をしてきている(これについては,独立行政法人国際協力機構(JICA)においても法務省の協力を得て研修やプロジェクト実施を通じて協力している。)。

 もともと,インドネシアには,ムシャワラといって,共同体の中で何でも話し合いで解決するという村社会の伝統がある(これは日本も含めたアジアに共通する土壌かもしれない。)。そのような土壌の中で和解あるいはメディエーションが機能する余地は大きいと考えられる。

<最終更新日:平成25年7月7日>

 

○ インドネシア裁判制度

1 インドネシアの法律については,1605年から1942年まで長期にわたってオランダの植民地であったことから,オランダ法の影響が強い。もっともインドネシア固有の慣習法であるアダット法の影響も残存している。1945年に現行憲法が制定され,スカルノ,スハルトの長期政権が続く中,強力な大統領の権限が温存されてきたが,2000年前後になって,3回にわたって憲法が改正され,大統領の権限の制限と地方自治の強化,基本的人権に関する規定が追加されるようになった。

2 インドネシアの裁判制度は,最高裁判所の下に,高等裁判所と地方裁判所が置かれている。もっとも,高等裁判所と地方裁判所のレベルでは,民事・刑事を扱う通常裁判所のほかに,行政事件を扱う行政裁判所,イスラム教徒に適用され婚姻等を扱う宗教裁判所,及び軍事裁判所が存在する。このほか,1998年になって,通常裁判所から商事特別法廷が分離し,破産や知的財産,商事仲裁の分野を担当している。

 一方,司法行政権については,最高裁判所の司法行政権は最高裁判所にしか及ばず,通常裁判所と行政裁判所は法務人権省,宗教裁判所は宗教省,軍事裁判所は国防省が管轄しているのである。

3 インドネシアの民事訴訟手続について,特に日本と比べて,①裁判所は原則として3名の裁判官からなる合議体となっている,②公判期日の間隔は通常1〜2週間程度である,③第一審判決は,事件受理から6か月以内に言い渡さなければならない,という特徴がある。

 インドネシアの裁判手続の問題点として挙げられているのは,最高裁判所における未済事件が多いということである。インドネシアでは,控訴は第一審判決が出てから14日以内に高等裁判所に提訴し,さらに上告は控訴審判決が出てから14日以内に最高裁判所に提訴することとされているが,控訴事由及び上告事由に対する制限が実効性をもたないため,多くの事件につき不服があるとして上告され,未済のまま残留してしまうのである。

 また,インドネシアの司法における汚職が多い点も問題である。裁判官に対する賄賂が常態化しているという指摘もみられるところである。

 司法手続の効率化・透明化,汚職の減少の対策が求められているといえる。

 (参考文献:ICD News 3117-156頁,ICD News 12157-190頁)

<最終更新日:平成25年8月4日>

 

  フィリピン家族法における離婚

1 フィリピンでは,カトリック教会の影響のもと,法律上離婚が認められていない。

 このことは,フィリピン家族法第1条が「婚姻とは,男女が夫婦生活および家族生活を始めるために,法律にしたがって永遠の結びつきを約する特別な契約である。これは家族の基盤をなすものであり,不可侵の社会制度である。」と婚姻に重い価値を置いていることにも表れている。

 フィリピン家族法が認めているのは,法的別居(家族法55条)といわれる制度までであり,別居までは認めるが,婚姻関係の解消は認めないということになる。

2 そうすると,重婚を認めていないフィリピン家族法のもと(13条,35条4項,41条等),日本民法における離婚原因に相当する婚姻関係の破綻事由が生じた場合,法的別居しかできないとすれば,死別以外再婚はおよそ不可能とならないかとも思われる。

 もっとも,そのような破綻事由が生じた場合,婚姻の無効・取消を活用し,事実上離婚の代替的機能を果たすケースが見られる。

 フィリピン家族法における離婚の取消・無効原因は,日本民法のそれらと異なり,例えば,配偶者の性的不能も取消原因とされる(45条5項)ほか,無効原因として精神的不能が挙げられている(36条)など範囲が広い。

 この36条は,「婚姻挙行の時に,婚姻の本質的な義務を履行することが精神的に不能である者が行った婚姻は,婚姻挙行の後にこの不能が明らかになった場合といえども,無効とする」と規定している。「婚姻の本質的な義務を履行することが精神的に不能である」の解釈については,拡大解釈する余地がある。すなわち,人生のやり直しを求めたい者が,不正な態度を取り続ける配偶者に対して離婚を認めるため,「精神的な不能」の範囲をより柔軟に解釈することが考えられ,最高裁でも争点となったのである(サントスvs控訴裁判所 1995.1.5)。

(参考文献:「フィリピン家族法」J.N.ノリエド著,奥田安弘・高畑幸訳)

<最終更新日:平成25年9月7日>

 

○ インドネシアにおける法律扶助と弁護士

1 インドネシアにおいては,オランダ植民地時代の1924年において現ジャカルタに法科大学が設立され,法律家が登場するようになった。しかし,インドネシア法律家は,植民地においては高い地位は与えられず,せいぜい植民地行政の下級官僚に任じられる程度であった。1945年の独立後も,スカルノ・スハルトの独裁体制において法律家は冷遇された。法律家にとって,社会的地位の向上の機会は,法学部を卒業後,法律扶助組織で経験を積み,企業法務などの法律コンサルタント業務を主とする法律事務所に就職あるいは独立するというルートであった。

2 インドネシアでは,独立後スカルノ・スハルトの独裁体制が続くが,1997年に通貨危機に陥って,翌1998年にスハルト大統領が辞任し,ハビビが大統領に就任するや民主化の動きが活発化する。

 市民的自由が制限されていたスハルト体制の下でも,政治的中立を掲げたインドネシア法律扶助協会(1973年設立)は,貧困層への法律扶助に活動範囲を限定して,弱者救済に重要な役割を果たした。そして,経済危機後においては,民主的な社会改革・政治改革にも貢献するようになっている。インドネシア法律扶助協会が扱う訴訟の内容でその傾向は明らかである。すなわち,1971年から1986年までに同協会が厚かった事件は,主として貧困層への法律扶助である民事事件(54.4%)や刑事事件(20.5%)が過半数を占め,開発に伴う立ち退きといった土地事件(10.2%),労働事件(14.9%)は主流ではなかった。しかし,1990年代に入ると,事件内容は市民的権利・政治的権利に関わる事件(40.3%),労働事件(27.2%),土地事件(16.3%),環境事件(18%)と変化しているのである。

3 スハルト体制後,インドネシアの民主化の流れの中で,インドネシアにおける汚職,癒着の問題,政府の能力の問題がクローズアップされている。インドネシア法律扶助運動の民主化プロセスにおける役割が今後増大されることが予想される。また,2003年には弁護士法が制定され,インドネシアにおける法律家の地位が向上し,その役割はますます重要なものとなっていくと思われる。

(参考文献:「インドネシアにおける法の支配と民主化」島田弦 「国際開発研究フォーラム」2012年3月 105−123頁)

<最終更新日:平成25年11月17日>

 

○ インドネシアにおける憲法改正

1 インドネシアの1945年憲法の改正が,強力な中央集権体制と汚職構造を生んだスハルト体制崩壊後に初めてなされることになる。

 まず,1999年10月20日の大統領選の前日になされた第一次改正である。そこでは,正副大統領の2期制限や大統領権限の縮小が規定された。すなわち,第7条は「大統領および副大統領の任期は5年とし,その後1期のみ同一の職に再選されることができる」とされた。また,20条は第1項で「国民議会は,法律を制定する権力を有する」,2項で「すべての法律案は,国民議会と大統領がこれを審議し,双方の承認を得る」,3項で「法律案が双方の承認を得られなかった場合,同法律案を同じ会期中の国民議会に再び上程することはできない」,4項で「大統領が双方の承認を得た法律案を認証することで,同法律案は法律となる」としたのである。

2 その後,第4代インドネシア共和国大統領となったグス・ドゥルのもと,政党間の政争を経て,2000年8月18日に1945年憲法の第二次改正がなされた。ここでは,新たに基本的人権保障の章が設けられたほか,地方自治に関する規定,国会の機能・権限に関する規定,国軍と国家警察の分離に関する規定などが改正・追加され,近代憲法の体裁に近づいたのである。

 基本的人権の規定では,28A条として,「何人も生きる権利を有するとともに,生命及び生存保持の権利を有する」としたほか,28D条1項は「何人も公平な法の承認,保障,保護,及び法の確実性を得る権利を有し,法の前の平等に扱われる権利を有する」,2項は「何人も勤労の権利を有し,労働関係において公平で適切な報酬と扱いを受ける権利を有する」とした。そして,28E条2項は「何人も,良心に従って,信条の自由,思想及び態度を表明する自由の権利を有する」と規定し,第3項は「何人も,結社,集会及び意見表明の自由の権利を有する」と規定した。または,28H状は社会保障の権利や私的所有権の保護をうたうなど,手厚い人権規定が施された。

3 また,スハルト体制崩壊直後の1998年〜2000年にかけては多くの民主的法律が制定された。例えば,2000年8月4日に認証された労働組合に関する法律(2000年法律第21号)では,10人のメンバーにより一つの組合を結成できることになり,しかも,これまでの許可制ではなく,届出制により結成できることになったのである。

(参考文献:「インドネシア資料データ集 スハルト政権崩壊からメガワティ政権誕生まで」 アジア経済研究所)

<最終更新日:平成26年6月7日>

 

 

○ インドネシアにおける民事保全・民事執行

1 民事訴訟法(民事保全・民事執行を含む。)

 インドネシアの民事訴訟法には,第二次世界対戦前,改正インドネシア手続法(HIR,域外手続法(RBg),外国人に適用されるオランダ民事手続法の3種があった。オランダ民事手続法は廃止されたが,前2者は非常に古い法律であるものの改正されずに残っている。前2者を補うため,最高裁判所の通達が度々発出されて,運用されているのが原状である。

 これらの他,国内外の仲裁機関(シンガポールなど)を利用した紛争解決という手段もみられる。

2 民事保全の問題点

 近年,日本の法務省法務総合研究所の委託のもとに,インドネシアの民事保全や執行などエンフォースメントに関する調査研究が行われた。

 それらを参考にすると,まず,インドネシアにおける民事保全においては,改正インドネシア手続法にはわずか2つの条文しかおかれておらず,その他は最高裁通達による運用に委ねられている。

 特徴としては,本案の提起と同時またはそれ以降に保全を申し立てることとされていること,先に動産を差し押さえ,それでも不足するときに限り不動産を差し押さえるとされていることなどが挙げられる。前者については民事保全の密行性に欠けるという批判があてはまる。さらに,実際の運用をみると,平均的に保全の決定が出されるのが申立から4ヶ月程度かかり,その有用性に極めて疑問がある。

3 民事執行の問題点

 改正インドネシア手続法では18の条文が存在するが不十分であり,民事保全と同じく最高裁判所の通達により補われている。しかし,最高裁判所の通達によっても手続の規定としては不十分であり,裁判官の裁量という不透明な手段によって運用されている。保全と同じく,先に動産を差し押さえ,それでも不足するときに限り不動産を差し押さえるとされており,債権は動産に含まれると解されている。預金債権執行は本来強制執行の中枢となるものであるが,債権執行の手続規定が不十分であることは大きな問題といえる。

4 求められる法整備

 以上のとおり,民事保全・民事執行というエンフォースメント面での規定の不整備はインドネシアにおける裁判による紛争解決の信頼性を損なうことになる。一方で,規定の不備は裁判官の裁量に委ねられる部分が大きくなるという作用を引き起こし,インドネシアにおける根強い汚職の存在とあいまって,インドネシアの民事裁判を回避して国外の仲裁機関による解決を志向するという結果を招来するといえる。しかしながら,最終的な解決となる執行はインドネシア国内法によらざるを得ないことを考えると,少しでも透明性を増すような法整備が求められているといえる。

(参考文献:法務省法務総合研究所国際協力部「インドネシアにおける強制執行,民事保全及び担保権実行の法制度と運用の事実上に関する調査研究」2012年(福井信雄弁護士の執筆))

<最終更新日:平成27年1月4日>

 

○ インドネシアにおける華人差別の撤廃

1 インドネシアにおける華人

 インドネシアは,華人の人口比率は約3パーセントと決して高いといは言えないが,インドネシア全体の人口が多いため,人数にすると700万人以上が居住し,世界最大の華人を抱えると言われている。なお,インドネシアにおいては,華人は,インドネシア生まれで現地への融合が進んでいる(移民した華人と現地生まれの女性の子弟を含む)プラナカンと主に中国生まれで中国語を話すトトックに大きく別れる。華人はインドネシアでは,「財閥・富豪」「商人」というイメージが強い。実際,「Forbes Indonesia」の2013年版では,10大富豪のうち,8人は華人である。

2 スハルト政権下の差別政策

 華人は経済的に富裕というイメージがありつつ,アウトサイダー的な位置づけに置かれてきたため,これまでたびたび暴動の対象となってきた。特に,1967年に政権の座についたスハルト大統領政権下では,困難な状況に至ると華人は大衆の怒りのはけ口の対象とされた(極端な例が金融危機の際の1998年5月の華人に対する暴動であり,これに続きスハルト政権は崩壊した。)。

 スハルトは,文化・社会面での同化政策を推し進め,1967年の大統領令第14号によって,中国的な宗教・信仰・習慣を公の場で行うことを禁じた。また,1978年,華人のアイデンティティの1つである儒教を公認の宗教から外した。インドネシアでは,結婚証明書や身分証明書に公認宗教の記載がなされるのである。

3 スラバヤ婚姻届訴訟

 1995年,儒教の信徒二人が東ジャワ州の民事登録所に婚姻届を提出した際,儒教が公認宗教でないため婚姻は不成立とみなされた。これを受けて1996年9月3日,二人は民事登録所長を相手に訴訟を起こした。第1審は,この訴訟の根本には儒教を宗教として公認するかの問題があり,行政上の手続を扱う民事登録所の裁量判断を超えているとして敗訴したが,1997年二人は最高裁判所に上訴した。

 儒教に基づく婚姻問題の背景には華人に対する差別問題があり,訴訟は幅広く知識人を巻き込む論争に発展した。後述の通り,スハルト政権の崩壊,ハビビ政権による民主化という社会の変化のもとで,中央レベルで儒教が公認宗教とされるに及んで,2000年6月,原告側の要求が認められる形で事件は解決した。

4 民主化と華人差別の撤廃

 スハルトの失脚後大統領となったハビビは1998年大統領令第26号で民族,宗教,出自によるインドネシア国民の差別を禁止した。その後を継いだワヒド大統領は,2000年の大統領令第6号で,スハルト政権下の1967年大統領令第14号を無効化し,これにより儒教を含めた中国的宗教や慣習を公の場で行えるようになった。以後,メガワティ大統領下でも差別政策が次々撤廃された。そして,ユドヨノ政権下において,2006年8月1日,多くの華人の願いである新国籍法が制定され,国籍証明書が完全に廃止され,華人とインドネシア先住のエスニックグループが国籍法上平等になった。

 このように,華人の文化・社会の受容,華人に対する差別の解消に代表されるインドネシアにおける民主化は進展している。そして,民主化と呼応するかのように,インドネシアの最近の経済成長は目覚ましいものがある。2010年以降,年間6%を超える成長を維持し,多くの外国企業が進出するとともに,直接投資を加速しているのである(2013年の直接投資額は過去最高の286億ドル)。

(参考文献:「インドネシア創られる華人文化」北村由美2014年『体制移行期における華人社会』ディディ・クワルタナダ;「インドネシア」後藤乾一編2000年98頁—144頁,「月刊インドネシア」2014年3月号16頁—28頁,「月刊インドネシア」2014年7月号2頁—10頁)

<最終更新日:平成27年5月4日>

 

○ ネパールの民主化と司法

1 ネパールの民主化

 ネパールは1769年よりシャハ王朝による王制を敷いてきた。1960年代初頭から1990年にかけては,「パンチャーヤット制」の下にあり,国王により首相が罷免されるなど,国王主導の政治のもと,政党は禁止され,言論の自由は制限された。

 1990年に民主化されて,新しい憲法ができ,国王の権力が大幅に縮小されて,政党が復活した。もっとも政治は不安定でネパール共産党の流れをくむマオイストの台頭で人民戦争を招くこととなった。

 一方で,2001年に王族射殺事件により国王をはじめ王族10人が死亡すると,人民戦争が深刻化し,2006年には王制が廃止されて,連邦共和制に移行することとなった。

2 ネパールの法律

 連邦共和制移行後,2007年に暫定憲法が制定された。1990年の第1次民主化後の憲法では,ネパールは「多民族・多言語」国家とされたが,2007年の暫定憲法では,それに加えて「多宗教・多文化」も盛り込まれた。そして,2008年には制憲議会が発足したが,政党政治は王制崩壊後も混迷し,2012年5月に制憲議会が解散されてしまい,憲法が定められない状態が続いている。

 ネパールには,1854年に制定された,民事法及び刑事法を含む包括的な法典,ムルキ・アインが存在する。1963年に一部改正されたが,いまだに民事,刑事の紛争解決にあたって機能している。もっとも,ヒンドゥー教,カースト制度の影響が強く残り,また民事法と刑事法に未分化,及び実体法と手続法の未分化ということもあって,改正作業がなされ,2011年2月に民法,民事訴訟法,刑法,刑事訴訟法,量刑法などが制憲議会に提出された。もっとも上述のように,2012年5月に制憲議会が解散されたため,法案の審議がなされない状態となっている。

3 ネパールの裁判システム

 ネパールも三審制を採用しており,地方裁判所,高等裁判所,最高裁判所が存在する。国内の75郡の地方裁判所には登録官と呼ばれる行政官がおり,民事及び刑事の訴状を受理する役割を担っている。 

 下の写真はポカラにある地方裁判所である(平成26年12月撮影)。

(参考文献:①「現代ネパールの政治と社会」南真木人,石井溥編 平成27年3月31日,②法務省法務総合研究所調査委託「ネパールにおける現行民事法の現状と今後の立法動木原浩之,松尾弘」,③ICDニュース第62号平成27年3月80頁〜101頁)

<最終更新日:平成27年9月6日>

 

   ネパールにおける女性の法的地位の向上

1 ネパール社会は、民族・宗教・カーストが複雑に入り組んでおり、民族は30 以上あるとされる。統治のため,全ての国民を「4ヴァルナ36ジャート」のカースト制に分類し、1854年,国民の行動規範として、ヒンドゥーの倫理規定である「ムルキ・アイン」が制定された。これは,紀元2世紀頃に、バラモンの生活規範として編纂されたとされる「マヌ法典」を基礎としたものである。 マヌ法典では,女性は独立して物事を決定する能力が無く、男性の監視下に従属させるべきものとの思想に基づいており,「ムルキ・アイン」もこの思想を引継ぐものであった。「ムルキ・アイン」は1959年憲法のもと,1963年に民主的に改訂されたものの,その時点でも妻や娘の権利は極めて制限されていた。例えば,娘は財産分与の対象とならず,妻も貞節と服従が財産分与の条件とされていた。

2 東西冷戦の崩壊、東欧の民主化の影響を受けて、ネパールでも1989年から翌年にかけて民主化闘争が行われ,民主的な1990年憲法が制定された。そこでは,宗教,カーストや性別による差別は禁止されたほか,男女間での同一の仕事における報酬の差別禁止が規定された。そして,1991年において女子差別撤廃条約が批准され,第4回世界女性会議(北京会議)が行われた1995年には、女性省が設置された。初代女性省大臣リラ・コイララは最高裁判所の勧告に従い民法典の第11 次改訂案を国会へ提出した。議会はこれを無視し続けたが,国連女性差別撤廃委員会やNGOの後押しもあって,最終的には2002年に改訂が実現する。ここに至るには,以下にみる最高裁判決も寄与したといえる。

3 最高裁判所判例

①「アンナプルナ・ラナ」ケース

 ネパールの王族の娘アンナプルナ・ラナは,インド留学中にインド人と同棲し娘をもうけたが,それらを理由に父親の遺産相続権が拒否されたため,訴訟となった。カトマンズ群裁判所は,「未婚の娘」であることを証明するため処女検査を受けるよう命じたが,アンナプルナは,プライバシー侵害を理由に上訴した。最高裁は,1997年,「社会の変化に伴い,処女性を堅持するか、性関係を楽しむかの選択は個々人の判断に委ねられている。ある者は性関係に関してオープンであり、他の者は内密にする。しかし、性関係の有無が女性の法的地位を変えるものではない。社会の近代化によって、個人の自由がますます強調されてきた今日、セックスだけで結婚したと判定することはできない。

処女性の喪失と結婚は、法的に同等と解釈することはできない。結婚したことが処女性の喪失を意味するとは解釈できない。」などと画期的な判決を下した。

② 「ミーラ・ドゥンガナ」ケース

 「女性法と開発フォーラム」のメンバーだったミーラ・ドゥンガナは,当時の民法典の「35歳まで独身であった女性は、兄弟と同等の遺産分割を得る権利がある。但し、その後に結婚した場合には、嫁資および結婚式費用を差し引いた残りの金額を、他の遺産分与請求権者に返還しなければならない」などの規定は1990年憲法第11条(平等権)および第17条(財産権)、女性差別撤廃条約に違反し、ミーラ・ドゥンガナ自身の権利を阻害しているとして、1993年,ネパール法務省等を相手に訴えた。最高裁は, 違憲立法審査権の発動を拒否したが、判断を国会に委ね、1年以内に法改正を検討するよう命じた。

「レーナ・バジュラチャリャ」ケース

 国営航空会社であるロイヤル・ネパール航空の客室乗務員の退職年齢は、男性客室乗務員は55歳であったのに対し、女性は30歳または10年間の勤務と定められていた。レーナ・バジュラチャリャは差別の解消を求める訴えを起こしたところ,最高裁は,1998年,女子差別撤廃条約の観点から,ロイヤル・ネパール航空の規定は認められないと判断した。

4 最高裁判決の経緯を踏まえて,民法典の第11次改訂に至ったわけであるが,現在においてもネパール社会は社会的にも経済的にも男系優位の側面が濃い。憲法の理念実現に向けて,女性の法的地位向上のための取組みが不可欠といえる。

(参考文献)

「ネパールの民主化と女性の法的地位」伊藤ゆき(法政理論第39巻第4号(2007年)450-495頁)

「ネパールにおける現行民事法の現状と今後の立法動向」南方 暁,木原浩之,松尾 弘(法務省法務総合研究所国際協力部委託調査)

<最終更新日:平成27年12月27日>

 

   中国刑法と法人の犯罪

1 現行の中国刑法典は,1997年10月1日から施行されているが,法人が犯罪の主体となることを認めている。すなわち,中国刑法30条は,「会社,企業,事業体,国家機関又は団体が,社会に危害を及ぼす行為を行った場合において,その行為が法律に組織的犯罪として規定されているときは,刑事責任を負わなければならない」と規定しているのである。中国の刑法典が,特別刑法や行政刑法を含んだ包括的な刑法典であることにもよるが,中国刑法各則に組織体犯罪が規定されている罪名は150にのぼり,全罪名の3分の1を超えている。なお,日本の場合は,刑法典上に法人処罰の規定はなく,法人の処罰規定があるのは,特別刑法や行政刑法であり,その多くは従業員である自然人を処罰するとともにその業務主である法人を併せて処罰する両罰規定の形式をとる。

2 中国刑法264条の窃盗罪や266条の詐欺罪については,組織体処罰規定はない。一方で,中国では,組織体による窃盗罪が問題となるケース(例えば,企業の幹部が従業員に指示して電気を窃取させるなどの事件)において,企業の責任者を処罰できるかが問題となってきた。

 これにつき,最高法院と最高検察院は,2013年4月2日,連名で,「組織体が窃盗を組織し,指示し,刑法第264条及び関連する解釈に該当する場合は,窃盗罪として,その組織者,指示者及び直接実行者の刑事責任を追及するものとする。」との解釈を示した(中国では,このような司法解釈が重要な法源となっている)。これにより,先のケースにおいて,企業の責任者が組織体犯罪として窃盗罪で処罰されることになり得る。

3 さらに,全国人民代表大会常務委員会は,2014年4月24日に,「中国人民共和国刑法第30条に関する解釈」(以下「立法解釈」という)を頒布した。そこには,「会社,企業,事業団体,国家機関,団体等の組織体が,刑法所定の社会に危害を及ぼす行為を行った場合において,その組織体の刑事責任が刑法各則その他の法律に規定されていないときは,その危害行為を組織し,計画し,実行した者に対して,法に基づいて刑事責任を追及するものとする」と定められた。

 この立法解釈については,種々の問題点が挙げられる。まず,組織体犯罪が規定されていない犯罪にも,適用され得るという点で罪刑法定主義に反するということである。中国刑法13条は,「法律に基づいて刑を受けなければならない」としており,この条文にも反するといえる。

 そして,中国刑法の多くの犯罪は自然人のみを処罰する単罰規定となっているが,刑法各則に明文の規定がある組織体犯罪以外の罪名について,組織対犯罪化され,しかも単罰制が採用されると,組織体犯罪における単罰制の罪名は322にのぼることになる。このことは,組織体犯罪と自然人犯罪の区別を失わせる結果となるし,処罰される自然人について責任主義にも反するといえる。

 人権保障,刑法の謙抑主義の観点からも,組織対犯罪についての無限定な拡張は問題があると思われる。

(参考文献:「日中刑事法の基礎理論と先端問題」2016年2月20日,189頁〜215頁,「中国刑法の特徴と犯罪構成論について」産大法学42巻1号,37頁〜57頁)

<最終更新日:平成28年5月8日>

 

○ ラオスにおける紛争解決と家族法

1 ラオス史と村の紛争解決

 ラオスは人口約660万人の多民族国家である。1000年紀からメコン側中流域の小国が結合,分離を繰り返して曼荼羅国家として形成されてきた。1889年に仏領インドネシアとしてフランスの植民地となり,一時的な日本による占領を経てラオス王国として独立し,1975年には共産主義政党であるラオス人民革命党主導によりラオス人民共和国となった。その後,新思考として市場と計画を導入した新経済管理政策が採用された。この政策のもと,1990年に所有権法,契約法,家族法,相続法,民事訴訟法が整備された。

 ラオスでは,戦後独立した後も,村レベルにおける紛争解決手段としては,慣習に従って,村長などが紛争の調停を行って解決し,紛争当事者間で合意に至らなかった場合等の場合のみ裁判所に提訴してきた,そのため,司法機関に頼らずに紛争解決がなされてきた。1990年以降も民事事件の多くが,裁判所ではなく村長等によって解決されてきたが,1997年以降は村長が推薦する村紛争調停組を設置して,村レベルの紛争解決に利用する政策が採用されている。

2 ラオスの家族法

 ラオス家族法(1990年制定,2008年一部改正)は,婚姻,親子等について,66条からなる比較的簡潔な条文により構成される。

 婚姻適齢は男女とも18歳以上であり,婚姻の実質的要件として,愛情関係にあって自発的な合意があること,現在婚姻していないこと,精神障害・重大な秒行き・伝染病に罹っていないこと等が挙げられている。婚約及び婚姻の申込はいずれも男性からのみ行うことができるとされているが,この点はいささか男女不平等な取扱いと映る。

 内縁,事実婚に関する規定はなく,社会主義法の特色と考えられる。婚姻の効果として,夫婦は「家庭内の全ての面において」平等な権利,義務を持ち,「配偶者は相手を愛し,尊敬し,世話し,プライドを尊重し,許し,助け合い,協同で子を世話し,かつ教育し,結束,幸福があり,かつ発展性に富んだ家庭を作る義務を有する」。

 離婚については,当初裁判離婚に限定されていたが,2008年改正により,協議離婚制度が導入された。もっとも,離婚届の提出先は村長であり,村長には夫婦仲直りのための説得義務等があるところが興味深い。裁判離婚の原因としては,不貞行為,3年以上の実刑判決等10個の事由が限定列挙されている。

離婚の効果は,子の保護者の決定及び養育費支払い,離婚後扶養等である。

 実親子関係については,婚内子及び婚外子の実父関係に関する規定と婚外子の父の任意認知・強制認知の規定が存在するのみである。

 そして,親族間の扶養義務等に関する規定がない。これは,少なくとも親族間においては,自発的に扶養・面倒見が行われているため,その必要がないためとされる。ラオス社会に助け合いの精神が根付いているといえないだろうか。

 また,渉外規定として,一方配偶者がラオス人である婚姻及びラオス人を養子とする養子縁組については,常にラオス法のみを適用するものとされている。この点,自国法に偏重するものとの批判もあり得るが,ラオスでは,婚姻や養子縁組を装った人身売買が横行していることから,これを防ぐためのやむを得ない規定ともいえる。

3 民法典整備

 ラオスでは2012年6月8日,9日に民法点起草開始式が行われ,家族法を含んだ民法典の編纂作業が開始された。日本による法整備支援もなされているところである。

(参考文献:「比較法研究」2015年 松尾弘(106頁〜110頁),西希代子(120頁〜127頁),「アジア法ガイドブック」鮎京正訓編,瀬戸裕之(267頁〜293頁))

<最終更新日:平成28年9月18日>


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